いいことをしてあげた感だけで終わらない形を望みたい(24時間テレビに思うこと)

こんにちは。「ネガおじ」こと、ネガティブおじさんです。

8月の最終土日恒例の「24時間テレビ」、このブログを書いてる正に今、放送中です。

ネット情報によると初回放送は1978年とあるので、もう41年を迎えることになります。

私が15歳の時ってことだ。

初回の放送時のことを私ははっきり覚えています。

まずは福祉をテーマにして寄付を募るということもそうですが、そのために24時間放送し続けるという、当時としては画期的なことで私も、すごい番組が始まったな、と記憶しています。

昨今では、番組内容のマンネリ感や、演出方法などに対して批判的な声も耳に目にします。

例えばお涙頂戴的な過剰な演出であったり、障害を持った人たちに様々なチャレンジをしてもらうコーナーがふんだんにありますが、障害者にあんなことまでさせていいのか、無理強いさせてるのではないか等々。

まあテレビ番組ということを考えれば、確かに過剰な演出感は否定できない面はあるように思いますが、障害や被災、難病といったことを前面に取り上げるということは、当時としては画期的だったし、何よりも最初に始めた人には敬意を表すべきだと思う。

ただ気を付けないといけないのは、こうした企画は「自分たちはとってもいいことをしているんだ」と、作り手側が勝手に自己満足する形で終わってしまいがちな事です。

私は以前、障害者の社会参加に関する記事「体のハンディを補うことを人に頼むのは迷惑なことか」を書きましたが、まだまだこの国の福祉に関する認識は、健常者側が障害を持った方々に対し、必要な施設などは我々の方で作るからそこでおとなしくしていればいいんだよ的なレベルにとどまっているのではないかと感じています。

番組批判には「障害者にあんなことまでさせてけしからん」的なものが多く見られ、その部分では一見すると障害者のことを考えてあげた意見とも取れますが、その一方で先の参議院選挙で重度の障害者が国会議員として主張をしようものなら、それを批判する声もまた数多くありました。

なぜなのでしょうか?

結局のところ、いやらしい言い方で恐縮ですが健常者側がハンディを持った側に「施し」をしてあげているという感覚が奥底にあるからではないでしょうか。

番組内での障害者や難病に苦しむ人たちの様々な挑戦企画を批判する声は確かにありますが、肝心なのは当事者の方がどのような思いで参画しているかだと思います。

体のハンディを持った方々が、普段はなかなか社会参加のきっかけをつかめずにいて、それを番組を利用して何かに挑戦できると望んでのことなら、番組の価値はあると思います。

番組も41年を迎えて、確かにマンネリ感や芸能人が前面に出すぎじゃない?的な感じもありますが、障害者のためのインフラ整備や健常者と障害者間の意識の壁はまだまだあり、お互いが何かをしてあげた、してもらったという感覚をなくせるような、次のステップに移ってほしいという希望はあります。

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