「神はその人に乗り越えられる試練しか与えない」について考えてみた

こんにちは。「ネガおじ」こと、ネガティブおじさんです。

「神は乗り越えられる試練しか与えない」または言い回しが逆なだけで「神は乗り越えられない試練は与えない」と言ったりもするようです。

どうやら聖書が出典のようですが、ドラマやいろいろなところでよく聞く言葉ですね。

この言葉は自分にはプレッシャーになる

しかしネガティブを自認する私としては正直、「ああ、いい言葉だな」と素直に思うことができません。

今が辛くて辛くて出口が見えないような時にこの言葉を受けて「そうか、これは絶対に解決できるんだ」と受け止めることができるでしょうか。

他の人が悩み苦しんでいるときに「神は乗り越えられない試練は与えないよ」と励ましの言葉として投げかけることができるでしょうか。

うつ病の人に「頑張れ」が禁句であるように、励ましの言葉は時に人を追い詰めてしまうかもしれません。

悩みのど真ん中にいてもがき苦しんでいる時に、この言葉をあびせられると、「じゃあこれを乗り越えられない自分は神にも見放されたダメ人間なのか」とますます苦しい気持ちになります。

逃げ道を絶たれているように感じる

以前「置かれた場所で咲きなさい」という本が注目されたことがありましたが、この言葉もどうなんだろうって私は思っています。

苦しいことがあってもそこから逃げちゃダメ。

今いるその場で問題を解決しない限り、どこへ行っても花を咲かせることはできない。

こんな感じでしょうか。

例えば今の仕事が辛くて辛くて、辞めたいのだけれど「ここで耐え忍ぶことが出来ないやつは他へ変わってもいっしょだぞ」って昔よく聞かされたセリフに近い感じがします。

だけど人はどこで花が咲くかなんて、そんな簡単にわかるものじゃないだろうし、場所を変えたことによって、自分が活かされる。新しい可能性をつかむといったこともあるはず。

だから乗り越えられないことはないはずだ。

なんて断言されると逃げ道を絶たれるような感じがして、絶望感しかわいてこない。

「乗り越える」とは逃げなかったこととは限らない

そもそもここで言う「乗り越える」とはどういう状態のことを指すのでしょうか。

今の苦難を逃げずに克服したことが「乗り越えた」ことになるのか?

私はこんな風に思いたい。

悩んで悩んで苦しくて、どうしようもなくて、もうここから逃げなければ自分は潰れてしまう。

だったら逃げてもいいんじゃないか。

逃げた後にどんな展開が待っているのかはわからないけれども、逃げることで救われることがあるなら、それは自分にとっては正しい選択だってきっと言える。

だとしたらそれも「乗り越えた」ことになるんじゃないか。

むろん、自分の身に起こる様々な困難から全て逃げればいいなどとは思っていない。

それは単なる放棄だ。

しかしやってみたけど、どうしてもうまくいかない。どう考えても自分の手に負えないと判断したなら、開き直る。方向転換するということも必要なのでは。

私の人生は出来ないことだらけだ。

他人には「逃げた」、「負けた」と映ってるかもしれない。

だけど自分の人生は自分のものであって他人のものじゃない。

自分の中ではこれが最良の選択だったと、後で思えたならそれが「乗り越えた」でいいじゃないか。

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コメント

  1. ひだ より:

    お久しぶりです、ひだです。
    記事内容、まったく同感です。

    この手の格言?はたしかに、ある人々に対しある条件の下で励ましや慰めを与え得る、という点で、意味の無いものではないと思いますが、所詮その程度のレベルの真理、つまりは処世訓に過ぎません・・・それを絶対のものであるかのように信じ込んで発言するとするなら、それは発言者の底の浅さを露呈するものでしかなく、もっと言うなら、真摯に「この世の真実」に向き合っているのかどうか、ということさえ疑いたくなります。

    • ネガおじ より:

      ひださん、ご無沙汰です。
      コメントありがとうございました。

      おっしゃる通り、こうした言葉が救いになるのは時と場合によることが多く、自分の中にスッと入ってくるならそれはそれでOKということで、聞き手が自由に解釈して受け止めればいいのだと思います。